【コラム】夏の食卓に寄り添う一品 ――エボダイの酢締めという選択

エボダイ。この名を聞いて、すぐにその魚の姿を思い浮かべられる人は、決して多くはないかもしれない。どちらかといえば目立たない存在であり、市場でも目利きの料理人や地元の漁師たちにひっそりと愛されている。だがその味わいは、まぎれもなく“本物”である。特に夏の盛り、脂のりがちょうど良い個体を酢で締めた「エボダイの酢締め」は、暑さに疲れた体にすっと染み渡る、涼味あふれる逸品だ。


地味で上品な魚、エボダイ

エボダイはスズキ目イボダイ科の魚で、成魚であっても全長30センチに満たないことが多い。銀白色のやや平たい体型で、一見するとこれといった派手さもなく、初めて見る人には「これは何の魚?」と首をかしげられることもある。関西では「シズ」、四国や九州の一部では「マメダイ」などと呼ばれており、地域によっては名も知られず食卓に並ぶことも。

だが一度口にすれば、その印象は一変する。白身魚特有のやさしい舌触りと、ほどよく上品な脂。火を通しても身が硬くならず、焼き物にしても干物にしても柔らかく、滋味深い味わいが広がる。特に脂がのる夏から初秋にかけては、料理人の間でひそかに重宝されている。

酢締めという技法の妙

「酢締め」は、古くから日本料理における保存・調理技法のひとつである。江戸前寿司でおなじみのコハダ(シンコ)をはじめ、サバやアジなど、青魚を中心に用いられる手法だ。新鮮な魚に軽く塩をふって水分と臭みを抜き、酢で締める。単なる“酸っぱさ”とは異なる、味の重層化をもたらすこの技法は、素材に敬意を払いながらその味を高める、まさに和食の粋と言える。

エボダイのような白身魚を酢締めにする例は、それほど多くはない。しかし、それがまた面白い。脂のりの良い個体を選び、過度に締めすぎないよう注意しながら、ほんのりと酸味をまとうように仕上げる。こうすることで、素材のやわらかさを損なうことなく、味に立体感と清涼感が生まれる。

家庭ではなかなか見かけないが、割烹や寿司屋など、素材にこだわる店では時折お通しや前菜として供されることもある。炙った皮目を軽く締め、薄切りにして山葵醤油で。あるいは、刻んだ茗荷や生姜と共に小鉢で供すのもよい。どれも一口で、丁寧な仕事を感じさせる品となる。

季節と食の調和

日本料理においては、季節との調和が常に意識される。旬の素材をどう活かすか、それが料理人の技量でもあり、哲学でもある。エボダイは通年漁獲されるものの、身質や脂のりのバランスが最も良いのは夏から初秋。気温が上がるこの季節に、酢締めという調理法が用いられるのは理にかなっている。

酢の酸味には、体の熱を取る働きがあり、また食欲を刺激する効果もある。冷房や冷たい飲み物で内臓が疲れがちな時期に、酢で軽く締めた白身の魚を一口。そこに冷酒や微発泡の日本酒が添えられれば、それだけで立派な一献の席が成立する。

また、エボダイはその味わいだけでなく、調理のしやすさからも家庭向きの魚と言える。小骨が少なく、下処理も比較的容易。骨を気にせず食べられるため、酢締めにしても子どもから年配の方まで楽しめる。

失われつつある“普通の魚”の価値

現代の食卓では、どうしてもマグロやサーモンといった人気魚種にばかり注目が集まりがちである。量販店の鮮魚コーナーには並ばないような地魚や、地味な白身魚は“知られざる存在”となってしまった。だが、本来日本の漁村や家庭では、こうした「普通の魚」こそが日々の暮らしを支えてきたのだ。

エボダイも、そんな魚の一つである。特別高価なわけでもなければ、漁獲量が極端に少ないわけでもない。ただ、知る人ぞ知る存在になってしまっているだけ。酢締めという手間のかかる調理法も、忙しい現代人にはややハードルが高く映るかもしれない。

しかしだからこそ、こうした伝統的な食材や技法を改めて見直す意義は大きい。地方の魚市場や直売所に足を運び、自分の手で魚を選び、丁寧に下処理し、季節に応じた料理に仕上げる――そんな営みの中に、豊かな時間と食文化が宿る。

終わりに:エボダイと向き合う時間

酢締めの作業には、静かな集中が求められる。塩加減、酢加減、締める時間――どれか一つでも間違えると、魚の持ち味は損なわれてしまう。だが、だからこそ面白い。料理とは本来、手間と時間と愛情をかけて仕上げるものであり、その過程こそが味わいの一部なのだ。

ひと口食べて、静かに目を閉じたくなるような料理。それは決して高級な素材から生まれるわけではない。むしろ、地味な素材をいかに活かすかにこそ、日本料理の奥深さがある。

エボダイの酢締めは、その象徴的な一品だと言っていい。暑さに負けそうな日の夕暮れに、涼やかな器に盛られたそれを前にして、ひとときの静けさと季節のうつろいに耳を傾ける――そんな食卓が、少しでも増えることを願っている。



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